2015.9.23

無理矢理
こじあけようとする
男たち

女性が誰かを心の内に招き入れるかどうか選択するとき、
その最終的な判断は絶対に自分でしないといけない。

心の内をすべて開かせようとする
松岡修造

家入明子 SOLO おひとりさま

先日、松岡修造氏が子供にテニスを熱血指導する番組が放送されていた。出演している子供は不登校や自称マイナス思考、自称短気などといった問題を抱えており、松岡修造氏が彼らに対し「変わりたいんだろう!」「強くなりたいんだろう!」と言いながら泣いたりする。
子供達が松岡修造の指導を仰ぎたいと言ったのかもしれないし、親が行って来いと背中を押したのかもしれないし、劇団所属なのかもしれないし、そこはわからないけれど、ついさきほど出会ったばかりの子供達に、もっと心を開け、もっともっとと強要する松岡氏に、私はとにかくうううっと、やりきれない思いになってしまった。
なぜ子供だからって、なぜ不登校だからって、出会って間もない、信頼関係の全く構築されてないテニスの講師に、心の内を全て見せることを強いられるのだろう。

 もちろん、松岡修造氏がご自身のテニスサークルで熱血指導する分には何の問題もない。
長きにわたり成長を見守り、子供達の望むゴールをきちんと共有した上で気分を盛り立てたり、冷静にさせたり、ある程度コントロールしながらゴールに向けてサポートするというのは正しいことだと思う。
それに今回だって松岡氏自身は求められた役割をきちんと演じきっただけなのだろうと思う。

 ただ私は、「不登校」「マイナス思考」といった断片的な情報だけをたよりに、テニスの技術を磨くより先に乗り越えるべき壁があるという前提を作り、乗り越えられなければ弱者だと定義する。この状況が何かとても浅ましく感じてしまったのだ。
番組中、子供達はしばしば泣いていた。それが恐怖とか理不尽さから溢れ出る涙だったとは思わないし、あのとき彼らは実際に「自分は弱い」「乗り越えたい」と思っていたかもしれない。
で、プログラムが終了したときには無性に爽快な、やり遂げたような気持ちになったりしたかもしれない。
でも、簡単にこなすのが難しい無理難題を与え、肉体的な苦痛を与えた上で相手の弱さをつきつけ、できないけど乗り越えたいんだろうと煽る。弱い自分を変えたいんだろうとけしかける。
宗教とか啓発セミナーが、人を洗脳し、搾取するために使う手段を、子供の教育という大義名分で用いるのに、私はそこはかとなく疑問を感じてしまったのだ。

「戦争放棄!」を掲げてきた女性たちが
自分の身を守るには

だいたいこれは女性にとっても他人事じゃない。
誰だってあたりまえに持っている心の弱い部分、一つや二つをえぐるように掘り下げて、ほら、あなたにはこんなに弱いところがあると露呈させ、足元をぐらつかせた上で自分に都合のいい価値観を押し付ける。
そんな悪質なやり方で相手を支配し、気持ちよくなったり、暴利を貪ったりする人間が沢山いる。

 前回、集団の中で一番無邪気でいられる女性が最強という話を書いたけれど、この無邪気さというのは一方で非常に厄介な武器だ。
というのも相手がこと男性となると、鋭い刃物としての切れ味を途端に失ってしまう。むしろ私は丸腰、戦う前から完全降伏ですよっていう戦闘力のなさをアピールする材料になってしまうのである。
でもそれは間違いではなくて、対男性という局面では、隙があったり、ゆるかったり、ちょっとバカだったり、相手に舐められる能力をフル活用して懐に入り込む方が、むやみに刀を振り上げたり、馬乗りになってボコボコ殴るより、より正しいスタンスとされてきたのだ。
つまり日本の女性達は男性に対し、長きにわたって「戦争放棄!」という憲法9条を独自に掲げてきたとも言える。

 女性側の思惑通り「丸腰だから戦争を仕掛けないであげよう」あるいは「丸腰だから守ってあげよう」と思うおめでたい同盟国が現れる一方で「応戦してこないんだから侵略しよう」と思う悪い輩も当然ながら現れる。
そこできちんと同盟国が身を呈して守ってくれればいいわけだけど、昨今の日本の現状を見るにつけ、最初は無邪気に見返りを求めず守ってくれてた同盟国も、そのうち「なんで俺だけが守ってやらなきゃいけないの?じゃあ俺のことは守ってくれるの?」とか言い出すようになってくるし、そもそも同盟国など持たないおひとりさまとしては、いざというとき、一も二もなく自分で自分の身を守れなければならないのだ。

 目上の人を尊敬しなさい、先生を敬いなさいという幼少期からの刷り込みに疑問を持たずにいると、たちまち影響力を誇示したい人が気持ちよくなるための道具にされてしまうし、下手すれば自分の田んぼを耕していながら、小作人として延々侵略者に地代を納め続ける羽目にもなりかねない。
だからこそ、この人を心の内に招き入れるのか、そうさせないのか、最終的な判断は絶対に手放してはならない。「心を開けないのが君の弱さ」と言ってくる人間の言うことには耳を貸さなくていい。慎重さは賢さだ。

人の価値なんて相対的で流動的

かつて、私の尊敬する人が教えてくれた。世の中の「すごい人」がどうやって決まるか。
「既にすごいと思われてる人に、すごい!と思われたら、すごい人なのだ」
冗談みたいだけど、色々なことが腑に落ちて、私は非常に感動した。つまりは、絶対的な価値なんてないのだ。
そのことに気づいていない人もいれば、気づいていながら自分に箔をつけるためにわざと真実を明かさない人もいる。
いずれにせよ、私自身はものの価値なんてそれだけ相対的、流動的なものと思っているから、自分の価値観に揺るぎない自信を持った上で、求めてもいない他人に堂々と強いることができる人というのを基本的には信用していない。

“You may think I'm small, I have a universe in my mind.”
「あなたには私がちっぽけな存在に見えるかもしれないけれど、私の頭の中には宇宙が広がっている」

 これは中学生の頃、英語の教科書に載っていたオノヨーコの言葉である(残念ながら私の教養は大体中学生の頃で止まっているのだ。)確か、知人に何気なく「子猫ちゃん」と言われたことに対する返答だったと記憶している。
子供だった当時は、悪意もなく、むしろ「子猫ちゃん」なんてどちらかといえば好意を示してきた相手にどうしてこんなこと言うんだろうと、相手の方を不憫に思ったりもしたけれど、大人になった今となってはよく分かる。
心ない人は心なく、また策士であれば策略的に、他人の大きな宇宙を、自分の持っている小さな箱に押し込めようとしてくるのだ。
誰が何を言ってこようと、自分の頭の中にある大きな宇宙を守らなきゃいけない。私はそんな風に思うのだ。

Text/家入明子