2016.12.1

美しいさみしさの奥にある
グロテスクな本音と向き合う

人間が誰しもが抱く感情である「さみしい」。しかし、この便利な言葉に怠けてしまってないだろうか。覚悟を持って向き合えば、本当に望んでいるものの正体が見える、最善のときかもしれない。

寂しくなくなったのは一人になったから

さみしさは敵か 特集 柴原明子 寂しさ 離婚 by Flash Bros

矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、3年前に離婚してからというもの、全然寂しさを感じなくなった。
それは別に、寂しさの回路がショートした、みたいな絶望的な理由ではなくて、本当に、離婚したら寂しくなくなったのだ。
だって、結婚していたときなんて、一年のうちの4分の3くらいは寂しかった。一つ屋根の下に住んでいるはずの家族が、なぜだかほとんど家にいないのだから。

 初めのうちは私も遅くまで起きて、夫の帰りを健気に待ったりもしていた。
代わり映えしないSNSのタイムラインを延々とリロードし続けたり、漫画アプリに課金し続けたり、だらだらと時間をやり過ごす合間に「まだ帰ってこないの?」なんてメールを送ってみる。
一向に返事がないことにイラっとして、今度は少し悲しい口調でメールを送ってみる。それでもやっぱり返事がないので、今度はちょっと、むっとした感じでメールする。

 一人、寂しさを持て余す時間に、家のリビングから繰り出すあの手この手は、自分では全て正当性のあるものだったけど、客観的に見れば情緒不安定な、“触るなキケン”な人だっただろう。

 そのうち、珍しく夫が家にいるときだって、いないときと全く何も変わらずさみしい、ということに気がついた。
家にいないからさみしいと思っていたのに、一緒にいたってさみしいのだ。結婚生活の終盤には、とにかくそんな粘着質なさみしさが、一度手に付いた納豆の糸みたいに、何をやっても、どこにいっても、しつこくまとわりついてきた。

 そんな期間が結構長く続いたので、たかだか離婚ごときでは逃げきれないと腹をくくっていたけれど、意に反して、あのときほどのさみしさには、離婚してから一切お目にかかることがなくなったのだ。

 このことを考えてみると、少なくとも私にとってのさみしさとは、本来埋まっているべき隣の席が埋まっていないこと、ぽっかりと空いていること。そのことへの、耐え難い空虚さなのだった。
離婚して、一人になることを選んだ今の私の隣には、そもそも誰かのための椅子なんてない。

 だからもう、あのときのように空虚にならない、さみしくないのだ。

「さみしい」という便利な言葉の奥にあるもの

つい先日、友人がこんなことを言っていた。

「僕は“かわいい”という言葉を極力使わないようにしてる。行き場のない軽い性的な興奮を“かわいい”というと、それ以外に表現できなくなるから」

 これには唸らされた。
猫も赤ちゃんも老人も、総じて「かわいい」存在は「かわいい」。そしてこの「かわいい」という言葉があまりにも便利過ぎるので、その奥にあるべき自分にとっての意味を、個別に定義することを怠けてしまっている。そんな真実は確かにある。

 これと同じことが「さみしい」にも言える。
何しろ社会にはいまだに、成人はツガイになってしかるべき、といった考え方がしぶとく残っている。
恋愛したり、結婚したり、子供を生んだりするのが当然という無言の圧力もある。
そんな中、おひとりさまであることはそれだけで、何かが不足している、不完全な自分を作る動機になる。
そしてあらゆる物足りなさは、大体「さみしい」で表現できてしまうのだ。

 だけどざっくりと「さみしい」と表現したその気持ちの正体は、本当は「人肌恋しい、セックスしたい」なのかもしれない。
あるいは「毎日が退屈でつまらない」かもしれない。恋人がいたり、結婚したりしている女性と自分を比べて、つい本来不要な劣等意識を持ってしまっているのかもしれない。幸せそうなあの子への嫉妬かもしれない。
もしくは、案外仕事のストレスが思わぬ形で影を落としているだけかもしれない。

 本音って大体グロテスクで、エゴイスティックで、自分ですら向き合うのを避けたくなるようなものだ。
だけど、一度わかってしまえば、案外、なんだ、そんなことだったのか、と理性や論理で片が付くことはよくある。

 もし生理前でもないのにただ無性にさみしいと感じるとき。本当は、その言葉のもっと奥にある何かが、“ここをケアしてほしい”と、しきりにSOSのサインを出している。
一見綺麗なベールの内側にある本音と覚悟を持って向き合うことで、そのときの自分に必要なものが、見えてくるのだろうと思うのだ。

Text/柴原明子

特集「さみしさは敵か」もあわせてご覧ください!
さみしさは“人とのつながり”では満たされない/小池龍之介さんインタビュー